「以前、朱莉さんにはいずれ自社ビルを建てるつもりだと話したことは覚えていますか?」京極は語り始めた。「はい、覚えています」「本当はあの頃には既に自社ビルを都内の何処かに建てようかと考えていました。ですががその前にまずは地方で試しに自分のオフィスを構えようかと思っていたんです。うちの会社はIT企業ですから全国各地に社員がいるんですよ。それで意外なことに沖縄に住んでる社員が30名程いましてね。沖縄が候補に挙がっていたんです。それで全社員にアンケートを取ったところ、ほぼ全ての社員が沖縄を支持したんです。それどころか、自ら沖縄に行って働きたいと言い出す社員もいましてね。それで一月半前から物件を探してようやくここまでこぎつけたんです」一月半前…それは丁度朱莉が沖縄に旅立った時期だ。もしかすると沖縄に決めたのは自分のことも含まれているのではないだろうかと朱莉は思った。「あ、あの……本当に沖縄にオフィスを構えたのはそれだけの理由なのでしょうか……?」朱莉はギュッと拳を握りしめながら尋ねた。「いいえ。まだあります」京極は静かに言った。「朱莉さん……貴女が沖縄へ行ったからです」「!」朱莉はビクリと肩を震わせて下を向いた。とても今京極の顔を見ることが出来なかった。「な、何故私が沖縄へ行ったことが……京極さんと関係あるのでしょうか?」本当は薄々朱莉には理由が分かっていた。だが……否定してもらいたくて、朱莉は勇気を振り絞って尋ねた。「朱莉さん……」突如、京極が朱莉の名を呼んだ。その声に驚いて朱莉が顔を上げると、そこには悲し気な京極の顔があった。「きょ、京極さん……。何故そんな顔を……?」「僕が沖縄へやって来たのは……それは貴女の傍で……支えたかったからです」京極はそこで一旦言葉を切ると、再び語り始めた。「朱莉さん。僕は貴女に嘘をついていました。母とは一緒に暮らしていません。3年前に亡くなったのです。貧しい暮らしの中で寂しい一生を送りながら。もっと早くに今の地位を手にれることが出来たなら、母は長生き出来たかもしれないし、楽な生活をさせることが出来たかもしれない。僕は激しく後悔しました。それから死に物狂いで働き、今に至ります。そして引っ越して数日が経過した頃に僕は初めて貴女をあの億ションで見かけました。その時から何て寂しげな女性なのだろうと思いました。貴
「すみませんでした。つい感情的になってしまいました」京極は素直に謝罪した。「い、いえ……私も強く言って……申し訳ございませんでした」京極はフッと笑った。「朱莉さん。話の続きをしても?」「はい、お願いします」「何とか朱莉さんを救いたいと思い、僕は沖縄にオフィスを設立して朱莉さんが沖縄にいる間は貴女の力になりたいと思ったのですが……」「?」「どうやら一足遅かったようですね。貴女の側には別の男性がついていた。年齢も外見も若いけど、正義感の強そうな若者でしたね」(航君のことを言ってるんだ……)京極の話は、大体は納得することが出来た。何故、沖縄に来たのかも理由が分かったかが、正直に言うと朱莉にとっては今の京極は荷が重かった。恐らく京極が自分に気があるのは間違いないだろう。だが朱莉は偽装婚とはいえ、れっきとした鳴海翔の妻だ。そして2人が偽装婚だと言う事実は京極には話したことが無い。京極の中では朱莉と翔は普通の夫婦だと認識されているはずなのに……それを知っての上で、京極が接近してくるのが理解出来なかった。それに、もう1つ一番重要なことがある。それは……。「京極さん、まだ私に話していないこと……ありませんか?」朱莉は緊張の面持ちで京極を見た。その時――突如として京極のスマホが鳴り響いた。「……」京極は電話に出ようとしないが、電話は鳴り続けている。「私のことはお気になさらずに、電話に出てはいかかでしょうか?」朱莉が言うと、ようやく京極は動いた。「……分かりました」京極は電話の着信相手を見て眉をしかめた。「京極さん?」朱莉が声をかけると、京極はハッとした顔になり、電話に出た。「もしもし……。ああ……いや、その話はまた後で……」そして何故か電話に応対しながら、朱莉のことをチラリと見る。(京極さん……?)「後でかけなおすから一度電話を切らせてくれ。……分かってる。じゃあな」それはいつもの京極とは全く違う口調だった。電話を切ると京極は溜息をついた。「……すみません。急用が出来てしまいました。それで……」「私のことなら大丈夫です」「え……? 朱莉さん……?」「京極さん、お忙しいんですよね? 私のことなら大丈夫です。ここから1人で帰りますから」「ですが……」「今日は素敵なオフィスを見せていただいてありがとうございました
「あ、あの……離していただけませんか……?」朱莉はどうしたら良いか分からず、声をかけるが京極からの返事がない。「こ、こういうことされると困るんです。お願いですから……」(どうしよう……航君……)朱莉は心の中で航の顔を思い出していた。何故か気付けば身体が震えていた。その時、背後で京極の息を飲む気配を感じた。「すっ、すみません、朱莉さん!」直後、京極が素早く朱莉から離れると背を向けたままの朱莉に謝罪してきた。「……」朱莉が無言で振り返ると、そこには今にも泣きそうな京極の姿が。「京極さん……」「本当にすみません。こんなことするつもりでは……しかも朱莉さんを怖がらせてしまって」京極は俯いた。しかし、朱莉はどんな言葉をかければ良いのか分からず、黙って見つめていると再び京極が口を開いた。「朱莉さんが先程、沖縄での仕事頑張って下さいと言った時……もう僕には会ってくれないのだろうかと先走った考えから、ついあんな真似をしてしまいました……」苦し気に言う京極に朱莉は声をかけた。「べ、別に……私はそんなつもりで言った訳では……」「ええ、そうでしょうね。朱莉さんは優しい人だから人を突き放すような真似は出来ないってことはよく理解していたつもりです。それなのに……」京極の顔は酷く傷ついていた。(私が震えていたから京極さんを傷付けたの……?)「朱莉さん……お願いです。もう二度とあんな真似をしないと誓います。なので沖縄に滞在する間……また僕と会っていただけませんか?」まるで縋りつくような目で朱莉を見つめる京極。朱莉は激しく葛藤していた。自分に好意を寄せている相手とは契約書のこともあるので距離を置きたい。もし、仮に京極と会っている所が翔にバレたら?契約違反として朱莉はペナルティを負わされるかもしれない。(それに……京極さんには悪いけど私が好きな人はやっぱり翔先輩だから……こんな気持のまま京極さんと会っても、反って傷つけてしまうだけかもしれない)しかし、京極は行き場の無いマロンを引き取ってくれた恩人でもある。その恩人を無下にすることは朱莉には出来ない。「…」朱莉は返事をすることが出来なかった。その様子を見た京極は悲し気に朱莉を見た。「すみません。僕はまた……貴女を困らせてしまった」「……」「朱莉さん。せめてメッセージを送るくらいならいいですよね?
1時間後――「朱莉! 何処だ!?」朱莉が美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジのカフェにいると、慌てた様子で航が店内に現れた。「航君! こっちだよ!」朱莉が手を振ると航がほっとした顔で駆けつけ、ドサリと椅子に座りこんだ。「すまなかった、1時間近くも待たせてしまって」テーブルの上に手をおくと頭を擦り付けるような勢いで謝ってきた。「え? やだ、何を言ってるの? むしろ謝るのは私の方だよ。だって那覇市からここまで航君に迎えに来てもらうことになっちゃって……本当にごめんね」「何言ってるんだよ! そもそも迎えに行くって言い出したのは俺の方なんだから。ところで……京極に何か変な真似されなかったか?」「変な真似……? ううん。別に何もされてないけど……?」答えながら朱莉は思った。(航君の言う変な真似って一体どこからが変な真似になるのかな? 抱きしめられたことも変なうちに入るのかな?)だが航が心配するだろうと思い、朱莉は黙っていることにした。「それで京極は何て言ってきたんだ? あ、その前に注文してきていいか?」航はガタンと立ち上がりながら朱莉に尋ねた。「うん、どうぞ。暑い中来たから大変だったでしょう?」「ああ、喉カラカラだぜ。じゃ、ちょっと行ってくるな?」カウンターへ向かう航の背中を見ながら朱莉は思った。(ふふふ……やっぱり航君といる時が一番気を遣わなくて楽だな……それに安心出来るし……)「京極は何故沖縄に来てたんだ?」アイスコーヒーのラージサイズを持ってきた航は余程喉が渇いていたのか、一気に飲み干すと朱莉に尋ねた。「う、うん。それがね……驚きなの。京極さん、沖縄のこの場所に自分のオフィスルームを作ったんだって」「な……何いっ!? その話、本当なのか!?」大袈裟に驚く航の姿に店内にいた客の視線が集中する。「航君……落ち着いて。ここ、お店だから」朱莉が航に耳打ちする。「あ、ああ……悪い……つい、驚きのあまり……」(くっそ〜。一体あの男は何を考えているんだ!? 朱莉に会う為だけに沖縄に自分の会社を建てたっていうのか!? だとしたら京極と言う人間は正気じゃないぞ!)「それで、京極は何故沖縄に会社を作ったって言ったのか?」「うん。京極さんの話では、元々社員の方は沖縄在住の人が多いらしくて、まずは東京に会社を建てる前に沖縄でオフィ
「航君。京極さんにもう顔が知られているのに調査なんて出来るの?」朱莉が心配して尋ねた。「ああ、こう見えて俺はプロだ。絶対の自信はある。それに……どれだけ俺が修羅場を潜り抜けてきたと思ってる?」航は自慢げに胸を逸らす。「え? そうなの? やっぱり興信所の調査員の人達って随分ドラマチックな生き方をしているんだね?」朱莉が目を見開く。今迄朱莉は絵にかいたような平凡な日常生活を送ってきていた。なので航のドラマチックな生き方が正直、羨ましいと思ってしまったのである。あまりにも朱莉が航の話を真剣に受け止めているので、航は気まずそうに言った。「い、いや……修羅場を潜り抜けてきた……って言うのは多少話を盛り過ぎてしまったかもしれないけど……とにかく、俺は京極の事を調べてみようと思う」「あ。でもそう言えば京極さんが気になることを言っていたっけ……」朱莉は京極との会話を思い出した。「何? 気になること? あいつ、一体朱莉に何を言ったんだ?」航は身を乗り出してくると朱莉に尋ねた。「うん、車の中で航君の話題が出て京極さんが言ったの。航君は調査員だから、自分のことを既に色々調べているんじゃないかって」航の眉が上がり、顔が険しくなった。「京極の奴……そんなことを朱莉に言ったのか?」「う、うん。だから京極さんはもしかすると航君のことかなり気にかけているみたいだよ? だからそんな京極さんを調査するって難しいんじゃないの?」朱莉は心配そうに尋ねる。「ああ。確かに調査はやりにくくなるかもしれないが……でも知りたいんだろう? 京極のこと」「知りたいって言うか、どうして肝心なことを何も話してくれないんだろうって。だから私は京極さんと会う時はいつも何処か不安で……」「そんなことは決まっている。それは京極にやましい所があるからだ。それこそ朱莉には言えないようなやましいことがな!」航は力説した。「航君?」「くそっ! 本当にあの京極って男は進出気没で朱莉を怖がらせるような真似をしやがって! こんなことなら、あの九条って男の方がずっとマシだ!」何故かイラついた口調で話す航。(どうしちゃんたんだろう? 航君……何だかイライラしているみたいだけど。違う話題をしてみようかな)朱莉は航に話しかけた。「ねえ、航君。お父さんに報告の仕事って、もう終わったの?」「ああ、終わっ
「朱莉、ここはアメリカンビレッジと言うだけあって、ハンバーガーショップが有名らしいぞ? しかも本場のアメリカ人も絶品だって書いてある!」航は何処から用意したのか、ガイドブックを見ながら、エリア内を朱莉と歩きながら興奮したかのように話している。「フフ……航君はハンバーガー好きなの? やっぱり男の子だね」「男の子……」航はまた自分が子ども扱いされたことにショックを受けつつも朱莉に言った。「な、なんだよ。そういう朱莉はどうなんだ? ハンバーガー好きじゃないのかよ」「ううん、好きだよ。でも全国規模のチェーン店しか行ったことがないんだけど」歩きながら航の持っているガイドブックを覗き込んだ。その瞬間、航の鼻に朱莉のフワッとした髪が顔に触れ、シャンプーの香りが航の鼻をかすめた。その瞬間航の顔が真っ赤になり、心臓が煩いほどドキドキ鳴りだした。(お、落ち着け……俺の心臓……!)しかし当の朱莉は航の葛藤に気付きもせずに、真剣にガイドブックを覗きこみ……やがて顔を上げると、航の顔が真っ赤に染まっているのを目にした。「キャアッ! ど、どうしたの? 航君、顔が真っ赤だけど……?」「あ、ああ。ちょっと暑いから……かな?」航は何とか必死で胡麻化そうとした。「大変! 熱中症かな? 急いで涼しい場所へ行こう? あ! 見て、航君。あそこに丁度ハンバーガーショップがあるよ? あそこに行ってみよう!」朱莉は航の左手を握ると、手を引くように歩き始めた。「あ、朱莉……?」航は自分から朱莉が手を繋いできたことにすっかり動揺してしまい、今にも心臓が口から飛び出しそうになった。(くそっ! 一体どうしたんだよ……これじゃ、まるで10代の高校生みたいじゃないか……!)朱莉はハンバーガーショップの店の前に到着すると、航の手を離した。「さ、航君。お店に入ろうよ」 店内に入った2人はメニュー表を見て、朱莉はアボガドシュリンプバーガー、航は照り焼きチキンバーガーをそれぞれ頼むことにした。「お? すげ〜ここのバーガーショップ、クラフトビールもあるぞ?」「航君、飲んだら?」朱莉の言葉に航は驚いた。「な、何言ってるんだよ? 車の運転があるのに飲めるはず無いだろう?」「運転なら私がするから大丈夫だってば」「いや、そんなわけにいかないだろう?」「大丈夫だってば。それにね、私……航
「フワアアア……」朱莉の運転する車の中で航は5回目の欠伸をした。「フフフ……ビールを飲んで車に乗ってるから眠くなっちゃったんでしょう? 着いたら起こしてあげるから眠っていいよ?」朱莉がハンドルを握りしめながら助手席に座っている航に声をかけた。「いや……だって、それじゃ運転している朱莉に……悪いだろ……?」今にも眠ってしまいそうな声で航は言う。「そんなこと気にしなくていいってば。ほら、眠って? どうせあと30分くらいはマンションに着くまで時間かかるんだから」「ああ……悪いな……。それじゃ少し寝かせてもらう……」最後まで言い終わる前に航は眠りについてしまった。朱莉は航の眠っている横顔を見ながら思った。(フフ……本当に弟みたい。航君は童顔だから尚更そう見えちゃうな)そして信号が赤になった時、朱莉はショパンのクラシックCDを車にセットすると、ボリュームを小さくして音楽を車内に流し、これからのことを考えた。(どうしよう……やっぱり翔先輩に報告をしないと駄目だよね。京極さんが沖縄にやって来て、偶然会ってしまったこと……。翔先輩に責められるかな? どうして妊婦の恰好をしていなかったんだって。それに航君のこと報告しないといけないのかな……?)そのことを思うと朱莉は気が重くなってしまった。こんな時琢磨が居てくれれば相談に乗って貰えたのにと思った。口では迷惑を掛けられないと言っていても結局朱莉は琢磨に助けを求めようとしていることに気が付いてしまった。「九条さん……今、どうしているんだろう……」朱莉はポツリと呟いた——****「航君、航君。起きて、着いたよ?」朱莉はマンションの駐車場に着くと、航を揺すった。「あ……着いたのか?」航は目を擦りながらぼんやりした声で訊ねた「うん。もう目、覚めたかな?」「ああ、大丈夫だ。悪かったな。朱莉に運転させて……」「そんなこと気にしなくていいから。それじゃマンションに戻ろう?」「そうだな。帰るか」朱莉が5F行きのエレベーターボタンを押すと、ドアはすぐに開いた。そして2人で乗り込んだ時、航は朱莉の表情が浮かないことに気が付いた。「朱莉、どうしたんだ? 何だか元気が無いみたいだけど……。あっ! さてはまたあいつが妙なことを言ってきたか?」「あいつって……どっちのあいつ?」朱莉が笑みを浮かべながら航を見
「私、京極さんに姿見られてしまったからすごく困ってるの。明日香さんの赤ちゃんは私が産んだことにしなくちゃならないのに。京極さんにお腹が大きくない姿見られちゃったから絶対に私が赤ちゃんを抱いて戻ったら誰の子供かって問い詰められると思うの……」「朱莉……」「京極さんは会ったらいけない人だったのに。だから明日香さんが出産の為にアメリカに旅立っても、私は1人、沖縄に残っていたのに、まさか京極さんが沖縄にやってくるなんて……。しかも翔先輩の秘書の女性と一緒に億ションから出て来る写真まであったし」「俺が京極と姫宮って女秘書の関係を調べる。そして……朱莉。京極にこの先、朱莉が子供を連れて東京の億ションに戻った時その子供は誰の子供なのかしつこく聞かれるようなら……喋ってしまえ。明日香が産んだ子供だって」朱莉は航の話に驚いて顔を上げた。「航君! でもそれは……翔先輩との契約違反に……」「要はっ!」朱莉の言葉を制するように航が言った。「要は……京極が世間に朱莉達の秘密をばらさなければいいんだろう?」「航君……」「だから俺達は京極の秘密を手に入れるんだ」「京極さんの秘密……?」朱莉は首を傾げた。「ああ、京極は鳴海翔の秘書と何らかの関係があるのは間違いないんだ。あの2人の関係を探ればとんでもない秘密が暴かれるかもしれないぞ? だから俺は必ず京極と姫宮の情報を手に入れる。そしてもし朱莉を脅迫してこようとしたら京極に掴んだ情報を言うんだ。逆に朱莉が京極を黙らせる為に脅迫するんだよ。いや……言い方が悪いな。お互いの秘密を守らせる……協定を結ばせる? とでも言い方を変えてみるか?」「航君……」「とにかく今は白を切りとおすんだ。明日香の産んだ子供を連れて東京へ戻るまでは……な?」「う、うん。分かった。航君がそう言うなら……」「よし、それじゃ明日から早速京極の事を調べるか!」航が妙に張り切って言うので朱莉は尋ねた。「ねえ。それより航君。沖縄での仕事は終わったの? 京極さんのこと調べる余裕あるの?」「ああ、ほぼ沖縄での仕事は終わった。だから心配するな。それで……朱莉。京極の新しい会社の場所は覚えているか?」航はPCをカバンの中から取り出すと、ネットで美浜アメリカンビレッジの地図を表示し、拡大させた。「う~ん……ごめんね。上空写真の地図だとちょっと分かりにくい
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう